堕天使奇談

 

 「死を選ぶ」というテーマはとても重いものだから、これからも何度となく語られていくはずだ。とみちるんはあとがきで語られていますが。

生きているより死んだ方がいいという人が「死」を求めてやってくる。

たとえば美優の妹のように本当に幸せに死んだであろう人もいる。「死んだ恋人に会えない世界」からの逃避をしたのは本人だし、これに関して言えば本人に責任があるわけで外野がどうこういう問題ではないのかもしれない。でも美優が辛い思いをしたことは事実で。でも「美優が悲しむから死ぬな」とは言えない、美優に「ごめんね」と謝ったうえでの死だから。

たとえば司野に助けを求めてきた子は死にたかったのかもしれない、でも直前で死ぬのは怖いと思いなおした。これはどうなんでしょうか。だって本当にいいのですかと聞かれて、はいと答えて直前まで死ぬことにためらいを覚えなかったのは本人の責任だろ、って思ってしまう。責任のありかだけ考えればね。

CLAMPがかつて提唱した、「どうして人を殺してはいけないの?」「悲しむ人がいるからですよ」ってことだ。

じゃあ他人が悲しむことまで責任を追わなきゃいけないのか、いけないんじゃないかとは思う、それが義務で、その義務を果たしてこそ死ぬ権利があるような気もする。ただ、人生でたぶん最大のわがままであること(なんじゃないのかな)をするときに、そんなこと考えないよきっと。わがままで権利だけ主張して義務を置き去りにしてはい終了。

でも私は自分が悲しみたくないし、まだ殺されたくないし、死にたくない。だからこそそういうことを私にする周囲は徹底排除する。よし、理論付け完了。

今回は「他人によって安易に」自分の死を「与えられる」ということがどうなんだろう、と森は言っているわけですね。受け止める覚悟ができてこそなのでは、ということ。そこまで考える人間はたぶん自殺しないよ…というツッコミはおいておいて。

もちろんチカがしたこと(アズラエルがしたこと)は殺人です。それは間違いないけれど、情状酌量の余地があるかという点については論議したいところ(ifチカが全くの善意だとしたら…アズラエルは完全になんとも思ってないし、チカも考えてないと思うが)ex高瀬舟といった。

 

下僕が主に絶対服従の形で呼び名を強要しなくてもよい。そんなものより、自分に絶対の自信があるから。司野のそういうところが素敵ですね。妖魔としての自負がよろしい。

今回の話、妖魔サイドでのお話も読みたいなあって思いました。

 

美優さんの話を聞いて思いました。地下鉄じゃなかったら叫んでたぜ。

河合さん、ただのマダオじゃないか!

たくさんの人に愛されて、必要とされてないと不安でしょうがない。おいおいおい!ちょ、母相手を求めるにもほどがありますわ河合さん!

 

最後に敏生の母代わりの園子先生にも面通しできてよかったですね森!

 

あと森とたっちゃんの、何年も会えなかった理由ってなんでしょうね。語られてほしいものです。私が講談社WHから卒業しないうちに。