赤の神紋 第9章 ―Overnight Aria― (コバルト文庫)
- 作者: 桑原水菜,藤井咲耶
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2004/08/31
- メディア: 文庫
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副題がovernight ariaということで、なんだか小休止っぽいなと思いました。…どこがやねん。確かに第一章は小休止っぽし、共演者殺しもないし、平和と言えば平和…なのか??
-your velvety voice-
修禅寺@連ケイ。その温泉街より奥まったところにある池の奥の能舞台が有名な宿ってどこですかー?修禅寺って歴史的に源家の血を血で洗う惨劇の舞台っていうイメージしかないんですが…。文豪とかが来たりする感じでしょうか。そういう温泉街って今は結構さびれていると思うのですが、たとえば下呂と湯布院ではターゲット層が違うように、きっと修禅寺もなんか違うんじゃないかな。行ってみたい。
「『だから、もう少しこのままで』止まることを許されず、転がるように走り続けてきたケイだ」
安息の時間を持って、そしてまた走り出すんだろうなあと。高耶さんは戦いの中でそういう時間をとっていたようだけど、それでもいつも何か悲哀が付きまとっていた。最後にようやく直江の中でゆるぎない安息を与えられて(そりゃまだ直江の行く先を案じていたりしたけど)安らかな眠りについてくれたけど。だからケイがこの瞬間がいつまでも続けばいいと思うほど安らいでいるのならそれに勝ることはないです。
「河鹿の声はケイの子守唄だった」
邂逅編で出てきて以来つい反応してしまう。かじか。笑
「榛原を、-樹海を焼き滅ぼすことができなかった」連城。焼き滅ぼしたい、榛原を乗り越えたい連城。榛原を捨てられないケイ。
それでも「もう一度おまえが世界に向けて自分を解放できるように」「ケイの中の美和ごと受けとめる」。ケイが自分を解放して、ケイの美和への想いごと肯定した瞬間、彼の中の<魔物>が出てきて、そして今、「確かに俺を呼んだ」と。
翌朝。
「求めていたのは本当はこんな健やかさではなかっただろうか。執着など持てば苦しいだけだ。状況を変えようとするから苦しいのだ。自分が変わればいいだけの話だ」
ああああ!それはあれですよたぶん1-4巻あたりの直江の心境じゃないですか!景虎様が全ての記憶を封印してもう一度やり直したいと思って、高耶さんという何も知らない存在になって、直江と出会った。それは思いっきり逃げではあると思うが、それも何度でも直江は自分を見つけてくれると信じていたからこそ。直江はそんななーんにも知らない深志の仰木を見て、イジワルになりながらも時に優しくする(for example 捨てられた猫のように)ことで満足していた時期。舌の肥えてないぼんびー人を餌付けしていた時期はさぞかし心穏やかだったと思います。まあなんでそれが狂犬発動になったかといえば、一重に高耶さんがなつきすぎたんじゃないかと思ってますが笑
…神紋の話に戻しますと(いかんな…ついミラージュ語りをしてしまう。でも桑原作品において、赤の神紋というのは神紋とミラージュを比べて考えたときにの色々乗り越えた物語の結末が立場的に一致するのです。ミラージュと神紋というのはなまじテーマ[勝者と敗者]が似てるからいかん。補陀落渡海とかもそうだけど。神紋がミラージュの影響なしでは語れない頭になっていることを考えれば、神紋にとってミラージュは榛原な気がする。神紋が最終巻まできたからこそそれがいい意味でも考えられるようになったと思う)、その健やかさは心の安寧という意味では本当に大切にした方がよいものというか、社会的には大切にしてほしいものです笑。そんなの連城じゃないけど。妥協することで成長をやめることは悪いことではありませんが、出来れば妥協しないで苦しみながらも成長していきたいし、成長していった姿をみたい。読者、Sだな。
「修禅寺物語」は遠い昔にみたような気もするが忘れてしまった。というか大河で北条時宗を見ていたあたりが一番鎌倉ブームだった。あれも好きな大河です。
サロメを連城の前で演じるケイ。
「(おまえが飲みほしたいのはだれの言葉だ。)ケイの胎内に溶けた言葉、受け入れられたワイルドは天にあがった。作家はどこまでも雄だと思い知った。言葉という種で孕んで役者は演技という赤子を産むのだ」
えろーい!!確かにそうかもしれない。この表現がたまんねぇ!天にあげる努力をすればするほどそうなるわけですね。だって作家にとって作品って自分をさらけ出してるようなもので、それを理解しようとする役者というのは作家とヤってるようなものじゃん!きゃああああ!(落ち着け)
ところでこちらは榛原。同じ月を見上げている榛原サイド。石島さんは格好いい。榛原の舞台監督なんてね。そういえばそういう人たちも必要でしたね。
「別れた恋人の息子を想うような目をしている」
別れた恋人=藤崎と考えるならば、恋人の息子=藤崎と同じ考えを持つ者としてケイを想っていたのではないかしらん。
「榛原の世界を完璧に表現する役者より、榛原の世界を突き破る役者を求めているのではないか」「榛原が榛原であることが、己の限界」すごい考えだ。演劇者として自分を広げることに執心するならばケイを取れと言っているようにも聞こえます。
「私は私の知らないクラウデスを骨まで貪り食ってみたいのだ」
よかったね連城ここまで行ってもらえて!無邪気に榛原は連城(の顔)が好きなんでしょうね。それと同時に、この社会性をイロイロ捨てた感じもあってたんでしょうね。
「手に入れるのが怖いだなんて、あるはずがないのに」
この榛原は誰を手に入れたかったんだろう。たぶんケイ…というかケイの後ろに見てる藤崎かな。藤崎が「おまえの人形じゃない」と言って榛原から失われてしまったように、ケイを求めて手に入れた先にあるかもしれない破滅が恐怖なんじゃないかしら。
(世間からどんなに白い目でみられても、あんたに受け止めてくれただけで、オレは充分だったんだ)
(あんたは、わかろうとしてくれたんだね、連城)
…とそこで終わってればまじで小休止なのに。小休止のあとにはまた嵐が来るんですね。
連城の作品をワタルが演じることによって猛烈な嫉妬を感じるケイ。成長したね!連城<クラウデス>にとっての<アンゲロス>が自分でないかもしれないという危機感。連城に対する独占欲。おねーさん泣きそうだよ9冊目にしてやっと!やっときたかこの感情!