なぜフェミニズムは没落したのか

 

なぜフェミニズムは没落したのか (中公新書ラクレ)
 

 

っていうか、フェミニズムって没落してたの?という感想から手にとった本。

 

まず、この本でやたら目につくのは、「80年代は女にとってはスバラシイ時代だったのだ」という主張である。80年代というのはどういう世代かというと、団塊団塊ジュニアにはさまれた世代である。と。しかし中学高校と政治経済をことごとく避けてきた私としてはそもそも団塊の世代ってなんだ、って話になる。いや、戦後に復員してきた男たちがやたらはりきった結果、というのは知っていたわけだが、どういう意味をもって語られるかということを知らないわけだ。今だいたい60歳になっているひとたちということは…あれ、うちの父もだ笑

筆者によれば、団塊の世代や今の世代=まわりを気にする≠80年代=まわりのことは気にせず自分のことを気にする、とい歴然とした差があるらしい。80年代に青春を謳歌していた一人の人がそういうのもひとつの意見である。80年代に生まれたものとしては、物心ついてないときにバブルがはじけて延々不況だと言われ続けているわけで、あまりそのあたりの話とは縁がない。

ただ、団塊ジュニア=「みんなと同じなのはいやだけど、みんなと違うのはもっといや」というのは全くわかりやすい主張だと思う。私は割とキチガイ扱いされてきたタイプだが、それは「違う」ことを誇っていた、というよりむしろ「違う」ことにすら気付かなかったからだといまになって思う。

80年代の、いわば80年代フェミニストと違う、「言ってることはもっともだけど、やりすぎには気をつけようね」という感覚もわかる。自分の学論を主張するのが仕事の方々はいいとしても、一般的な女がそんな行動をとったらたちまちに生きにくい世の中になると思う。ただ、それは男女というよりは人間関係的に異質なものを排除するという点においては当然と思う。あ、それで、今まで女が女の関わり方をしてきたのにいきなり男のような関わり方を求めてきたから排除しようとしてきたのかしらん。ならちょっとわかるかも?

そして次に林真理子マンセー。最後に上野千鶴子キライ。「フェミニズム」と「フェミニズムのようなもの」の差異。

 

ファッションの話はよくわかんないから置いておく。

 

食事のはなし。わかる。私は上野さんの本を読んで、彼女に同意したクチ(すなわち、誰とメシ食ったってメシはメシじゃん)だけど、それでも「自分が食べたいもの」でなく「他人が食べたいもの」を作らなくてはならなくて、「男の料理は『家事』でなく(女への)『施し』である」というんだったら腹が立つ。が、しかしなにぶんにも唯一考えてるのが日々大学に持っていく弁当(というか素材の入れ合わせ)程度である以上、なーんにも文句が起こらないのも事実である。まわりの男の子は安い定食屋に行ったりうちで適当になんか作ったりと、ほぼ私と同じ事を生きるためにしているし。

「他人に作らせた料理を他人に給仕させて食べるのが一番楽しい」というのは??である。確かに他人に作らせた料理はおいしい(油ものでもしようものなら食べる前に油のにおいにげっそりしてしまう)が、たとえばバイキングは自分で給仕するものだ。それでもおいしい…と思うが。ま、日々そうだったらげっそりなんかなあ。

うちは父が母の手伝いをしろと呼ぶくせに自分はテレビを見ているから腹たったこともあったが、父がふらっと台所に母に懐きにくると割と邪魔なのである。だから給仕は嫌いじゃない。

自分で料理すると作りながら食べるからあまり料理という感覚はない。むしろただの栄養補給というか、いかに最短時間で作って食べるかというところに焦点をおいている。他人のためじゃねーからな。

 

均等法以来、建前上は差別のない世界だし、差別がないように感じてきたから、「なんらかの不利益をこうむっている人=自己責任」という言葉が出てくる、という主張は私のなかにないもので、しかし妙に納得した言葉だった。だって私もそう考える人種だからである。「自分さえよければいい」と「まず自分がいいのがいい」とは差があることで、自分が他者と比べて幸せであるかどうかというより、みんなで幸せになればいいじゃんという考えは、まあ健康的だと思う。

 

「私立女子校」にはあんまりいないタイプとして、「あんまり他人にどう思われるか気にしない」というのをあげていて、公立にはそんなんばっかだ、みたいな発言があるが、それは断じて違うと主張したい。いやそれはもちろん私が私立女子校時代も珍種扱いされていた(と最近になってわかってきた)ことを考えれば確かに私立女子校を語れる文化にはないのかもしれないが、しかし公立こそ今では「上の言うことは絶対主義」「群れなければなにもできない」タイプの巣窟であると思うのだ。もちろんそうでない例もたくさん知っているが、私立の方が確実におたくを養成する場であると主張したい。大学になったらこれまた反対になるのが面白いが。

 

上野の論に女性がついてこれなかった論として、「ごたくはいい、さっさと術を教えて!あ、できる限り簡単で楽しいものがいいわ」というのを、上野自身の徹底さ、が完全に対立したからだ、というのがある。わからんでもない。

ただ、男が「金持ち喧嘩せず」として、「喧嘩をする女」は「喧嘩などという愚かな行為をしている存在」として高みの見物する、というのは本当にそうだ。これは事実だ。

また、「あんな言い方したって無駄なのに…」「どうして自分の正しさを主張するだけじゃなく、実効性のあるやり方を考えないんだろう」というのも確かにわかるのだ。でもこの考え方はむしろ男目線の女のヒステリーにあてられるものであると思うのだが。

 

しかしオウム論争のくだりはやはり実感できない。私がいま、国立で大学生をやっていること自体がたぶん恵まれたことである、と受験時代に進路決定の時に言われたことであり、ということは確実に親に勉強しないでいいよ、むしろするなと言われた人間じゃなかったのである。今考えると母は80年代であり、すなわち勉強しろと言われた時代を過ごしたから、当然のように自分の娘にも同じことをしただけのことである。それは私にとって幸せであった。なおかつ私は姉妹はいたもののまあまるで男のようと言われてきただけはあったのだ、二人とも笑

 

「男は群れる。群れるという男の持つ悪癖を女は嫌う」とあったんだが、いーや、男も女も群れるぞ最近は。というか、むしろ女の方が群れていて、群れている女を嫌う男も実は群れている、という形式になっている気がする。

 

「男社会=加害者の仲よし倶楽部」に関してはそうなのかなあ、と。そもそも性的な感覚がたぶん私は薄い。男友達と酔った席で、○ナくらいしたことあるでしょ、頻度とかぶっちゃけどんだけすんの?という、まあ下品な質問をされた時も、したことねーよ、と言えずに笑ってごまかした。(あ、あくまで友達です。先に相手に今月の下半身事情を聞いたのはこっちだし)だからこーいう話題は避けます。だって男知らんくせにって言われたらそれまでだもん。

 

この一文は好き。「もう戦争は嫌だと逃げることができる」ということ。逃げればいいのに。自分が好きな祖父が嫌いだって言ってた、だからいや。って言っただけでは国家の支配者としてダメなことはわかる。でも、国民に、こういうことを大きな顔して言ってる人がたくさんいれば、支配者も孤独じゃなくなるんじゃないですかね。

私も戦争はいや。おびえる毎日なんて冗談じゃない。