呉●魯粛子敬

呉の2代目大都督。ってことは、呉に今までずーっといた、強くて頭良くて(以下略)な公瑾兄が死んでしまって、でも公瑾が育てていた奴らがもう少し待たないとダメ、みたいな頃に「しゃーねーな、じゃあやってやるよ!」とやってくれた人。つまり面倒くさい役回りをやってくれた人だ。

例によって孫家より名門かつ金持ち。最初に公瑾が「子敬さん米くれよ」って言いに行ったら「倉持ってけよ」って返してくれた江東の狂児。財産をなげうって困っている人を助け、地方の名士と交わりを結んだとか言ってキチガイ呼ばわりされたというから、さぞかし公瑾と気があったに違いない。名門かつキチガイという点において。でも自分で兵育ててたあたり、所詮地元の坊ちゃんの域は出ないが地元を守りたいタイプだったのかなと。

だから伯符が亡くなった時も公瑾に説得されて思いとどまった。…おまえはどんだけ公瑾が好きやねん!たぶんね、子敬さん、公瑾のこと本当に放っておけなかったんだよ。

孫家は結構漢万歳なところはあるけど、たぶん公瑾も、そして子敬も、漢なんてどーでもいいと思ってる。帝王って名乗っちゃえ!とか言うし。傲岸不遜で敵を作りやすいけど、一度懐に入れたらもう大事。その点は公瑾と正反対かも。

「降伏するの?別に俺はいいけどさあ、だって孫家より名門だから重用される自信あるし。でも孫家って大丈夫?家柄的には軽く見られるよ」って赤壁のときに思いっきり言ったあたりから、ああこの人公瑾と仲良かったんだなって思う。こういう人のフォローが上手いのが公瑾だ。だって伯符で慣れてるから。

公瑾亡き後とかめっちゃ大変だったと思うよ?その中で外交的に特に荊州をめぐって蜀とやりとりしたあたりは、柔をもって剛を制すってことをようやく実行してるという。たぶんめちゃくちゃやりたいタイプだけど、公瑾いなくなったし俺が無茶やったらマジでやばいという状況になったからまともに頑張ったんでしょう。