大内義隆

山口における布教を許可するなど、野心に富み、開明的な人物であった大内義隆非常に衆道を好み、ザビエルに衆道を激しく非難される発言を受け激怒したという話がある。また正室貞子との離婚の原因の一因は、衆道を好む余り貞子を全く顧みなかったことであるとされる。 ←いくらなんでもこれはまずかろうよ義隆!そりゃ女ほっといて男に走られたらすねるわ!

義隆が陶隆房を寵愛していた頃、馬で五時間もかけて会いに行ったが、隆房が深く眠っていたために和歌を残し帰還したという話がある。この二人の衆道関係のもつれが後の隆房の反乱の原因になったという説もある。←まさかの説。陶晴賢も意外にかわいらしい性格をしている。

陰徳太平記(なんだこれ。ものずごく胡散臭い!)などには「又四郎隆景は、容姿甚だ美なりしかば、義隆卿 男色の寵愛浅からずして」との一文に小早川隆景が義隆と深い衆道関係にあったことが記されており、また隆景・陶隆房の他にも毛利隆元、陶義清、相良武任、冷泉隆豊、清ノ四郎、安富源内などが義隆の寵愛を受けた人物とされる。中でも極めて美貌であった隆景は前述の通り義隆に深く愛され、また冷泉隆豊や相良武任の寵愛は隆房の反乱の原因となったという説がある。

大内義隆大好きになったかも。っていうかあの反乱…。誰か小説書いてください。どろどろの。