負け犬の遠吠え

 

負け犬の遠吠え (講談社文庫)

負け犬の遠吠え (講談社文庫)

 

  

完全に負け犬っぽい自分万歳。いやいいんだけど。(よくない!)

でも土井たか子さんや緒方貞子さんが例なのが古い…。緒方さんとか知った時にはおばあちゃんやし。

その点サーヤはまだ素敵な女性という目で見ることができた、というか、若者ではないがオバンでもない、という年齢であられた。まさに大和撫子だと思うのだ。(このあたりは私の勝手な意見ですので)

 

たとえば天皇家を例に出すというのはちょっと不遜かもしれんが、雅子様は元々キャリアウーマンなのになんであんな(って言ったらアレか)家に嫁ぐ、という選択をされたのか、と思ってしまい(そう思う時点で負け犬か)、その後「天皇家に新しい風を」みたいに言われたとかいう(違ったか?)理由を知って納得したものだ。家の圧力やら子供がどうとかでうつになられたという記事を見ては、「あ~よくある話なのに、家が家だけに大変だなぁ」と思い、あの時点で皇太子殿下が庇うような発言をなさらなかったら、思考が負け犬一直線になるところだった。

が、逆に金も名誉も地位も優しい旦那もいるのに、しかも本人だって超一流なのに、なんだってこんな思いをされなきゃいかんのかと思い、「女として幸せ」という概念に捕らわれる日本というのはこういうことかと納得した。

 

じゃああの弟妃様に憧れるかとなると、そんなことはない。勝ち犬っぽいからこそ、負け犬予備軍である(自覚さえしてきた…)私がなんか「?」と思ってしまうのは、本書を読んでなんとなくわかった。好奇心とか冒険をしない代わりに、純粋でもないというあれだ。

 

そう考えるとサーヤは負け犬にも勝ち犬にも素敵って言われる、稀有な方なんじゃないだろうか。家ではいつも皇后のフォローをしているあたりでは世のおばさま方はいい娘!ってなるし、一歩下がって兄嫁に心砕いたあたりはそうありたいと負け犬も思う手本みたいやし、そして普通の結婚(失礼)をなさったあたりで勝ち犬の共感も得られるんやない?と。家庭の中の女として、ね。

 

いや別に天皇家について語りたいわけではないが、なんとなく本書を読んで思い浮かんだ。

つまり…気持ちよく生きていこうってことと、人間は子供を育てるためにこんなに長生きしてるんやなぁというのを思いました。

 

で、さておき、この国は別に男性が極端にいないわけでもないんだから、女が未婚なら当然同数の男がいるものだ。という主張はちょっと目からうろこでした。女がどうのというのなら、同時に男もどうのと言わざるをえない、んだ。