四季 秋

四季 秋 (講談社文庫)

四季 秋 (講談社文庫)

 

秋は、四季さん中心というよりは最初萌絵ちゃんと犀川先生のその後…Vシリーズとのかかわり、を重んじて楽しんでいたのですが、そうではなくて、夏までの四季、そして秋(つまりS&Mシリーズの始まりから終わりの整理)の四季がちゃんと見れていたのかもしれないです。天才は天才であって、その思考を7年越しに理解する。でも秋の時点で、四季は最も理解しやすい処にいたような気がします。それは萌絵ちゃん視点で語られたからっていうのが大きいと思うけれど。

 

だいたいからにもう犀川先生は何をどう考えて指輪を贈ったのか聞きたい。もう聞きたい。萌絵ちゃんが紅子さんに会いに行ってしまったあたりはもうちょっとこれは一直線だな、と思ったわ。幸せになってくれ。

犀川先生はたぶん学術的に言えば馬鹿になった(喪失ね)んだよね。四季がX=∞で昔の犀川がX=100の可能性があったら今はX=50かもしらん。それをどう望んだのかしら。(今統計学をやっているのでこういう発想になる)

萌絵は大人しくなったのよね。逆に。解放の形なのかしら。ちょっと思ったけど、四季は萌絵を娘みたいに思ったのかもしれない。本当に可愛い人って思ったと思うの。犀川先生やら四季に嫉妬するところが、萌絵が何でもなかった時代から、ある意味一般人に理解可能な天才になったくだりを観察して、結構興味深いと思ったんじゃないかしらんと思わないでもなかりけり…(どっち)

 

もうひとつは各務と保呂草の関係。アダルティかつ犯罪くさい。保呂草さんは新シリーズでも相変わらずご活躍のようで、おまえ本当にイイ歳してなにやってるんだよと言いたいです。

保呂草さんがせっちゃんと会って「あるいは隣に」なくだりはちょっと笑った。せ、せっちゃんだけは楽しい世界にいてほしかった…。七夏さんの存在のせいかしら…。

 

紅子さんはそういう風に考えていくと、へっ君がいなくなったと思った時に見せた母性は非常にわかりやすいものでした。愛情のあり方が彼女は昔は非常に分かりやすかった。もしかしたら今もかしら。林さんを扇風機たとえていたのは昔を懐かしんでいたのかしら。今は太陽だと思えるようになったのかな?

 

ひとつの言葉として、「許す」っていうのがあった。でもなんだか、許しても許さなくても物事は存在しているという観点から考えると、ちょっと悲しい。それでも動くのは結局は人の情だと思うし、だったら何かによって縛られていないと無法地帯だ(法っていう方法に限らなくてもいいけどさ)。

四季が他人との距離をはかって自分の立ち位置の確認を行うなら、私が立ち位置の明確性のために縛られることを好んでも仕方ないと思う。それによっての不利益がもったいないのかしらん?

 

クロンがどうのこうのの話から百年シリーズを読み直したい心境に駆られます。私はあの話のミチルと女王の関係性が好きだったので、たぶん四季の、四季なりの愛情?も好きなんじゃないかな。理解はあんまり出来んけど…。