小さき者へ

 

小さき者へ・生れ出づる悩み (新潮文庫)

小さき者へ・生れ出づる悩み (新潮文庫)

 

 

「お前たちは生れると間もなく、生命に一番大事な養分を奪われてしまったのだ。お前達の人生はそこで既に暗い。

空海が言うならば、生の初めに暗く、だから、この考えは私が好きなもののはずなのに、どうしてこんなに忌避感を覚えるのだろうか。たぶん、それはその人生観に「親」というファクターが持ち込まれたことなのではないかと推測する(←自分のことなのにな)

この考えは有島のものであって、あなたが親を知るからそうであるだけだろう、初めからいなければそれなりにやっていくと思うぞ。と反論したくなる。

「何故二人の肉慾の結果を天からの賜物のように思わねばならぬのか。」

そう思うことのほうがよほど自然に思える。たいていはそうだと思う。ただこれは男の考えであるというのはおかしいと思う。というのも虐待は決して男性一人によってなされるものではないから。女性だって母性本能を凌駕する別の本能があるよ。たぶん。

「お前たちは不思議に他人になつかない子供たちだった。」いやあんたが世話してなかったからじゃないのか。

 

「お前たちが六つと五つと四つになった年の八月の二日に死が殺到した。死が総てを圧倒した。そして死が総てを救った。

ここ好きだな。殺到して、圧倒して、そして救う。暴力的ではあるけれど、救いでもあるような。

 

「お前たちの清い心に残酷な死の姿を見せて、お前たちの一生をいやが上に暗くする事を恐れ、お前たちの伸び伸びて行かなければならぬ霊魂に少しでも大きな傷を残す事を恐れたのだ。幼児に死を知らせる事は無益であるばかりでなく有害だ。」

その母の想いをいつかわかる日がくる、と。このトラウマを抱えさせたくないという考えは崇高なのかどうなのかわかりませんが(ことばをだいじにつかいなさい)、それでも最初に有島がただでさえ「暗い」と言いきっちゃったんだから、これ以上暗くしてどうするよ的展開です。でもそれは結局「暗い」のは妻を亡くして、母を亡くした子をこれから見ることになる有島のほうなのではないかと思う。

少なくともそんな出産のことを知らされたら重い。子供は重く感じると思うぞ。

 

「私は私の役目をなし遂げる事に全力を尽すだろう。私の一生が如何に失敗であろうとも、又私が如何なる誘惑に打負けようとも、お前たちは私の足跡に不純な何物をも見出し得ないだけの事はする。きっとする。お前たちは私の斃れた所から新しく歩み出さねばならないのだ。然しどちらの方向にどう歩まねばならぬかは、かすかながらにもお前達は私の足跡から探し出す事が出来るだろう。

 小さき者よ。不幸なそして同時に幸福なお前たちの父と母との祝福を胸にしめて人の世の旅に登れ。前途は遠い。そして暗い。然し恐れてはならぬ。恐れない者の前に道は開ける。

 行け。勇んで。小さき者よ。」

好きだなあ。人はこうして進んでいくと思うのです。

ていうかもうあののろけな部分はいいや。最後。この最後がいい。

ただ丸投げー?って思うけどね!全員が10代とかそんなときに結局有島は心中するんだろ?

 

有島は文明人であって、いわゆる現代で言うセレブであり、そのくせうっかりキリストとかにかぶれて欧米で人種差別を経験してしまったというフルコースな人生を歩んでいますが、そんな彼を乗り越えていけるならそれはそれで最高の踏み台なのではないかと思う。

 

有島には二度の心中経験があるが、一回はホモの修羅場だった疑惑がある。っておい。いやまああの時代だからそんなに意味はないと思うが、それでも十分面白いわ文豪たち。私は太宰と中原と小林が好きだがな。

二回目で成功したわけだが、その相手もまた美人だなあと思う。ふるってんな。

生と死の境をひょいと飛び越えてしまえる人なんかなあと思ったが、これを読む限りでは決して飛び越えられないものであり、死とは暗いものだという考えはあったようだが。うううん。

 

有島はキリストにはなれなかった。キリストを素直に慕うこともできなかった。直江か。

できないが故に苦しんで、自分で存在に対する理論を構築しなければならなかった。その相手が誰か一人というわけではなかったのか。強者の施しを考えて万人に愛を捧げようとしたから。神になれればよかったのに。神を慕うものになれれば楽だったのに。才能を簡単に生かせたんじゃないかと思うの。