吉野の桜は人を救う

朝0745にぱっちり目が覚めて晴れていたので、吉野に桜を見に行くことにした。(←思いつきの極致)
近鉄に乗って行けばいつか着くさ、と思っていたら、近鉄名古屋駅の特急切符売り場の窓口は0910で列が出来ていた。00か30分にしか出ないからいいけれど、急いでたらびっくりしたかも。
0930→1223 名古屋→吉野(近鉄で大和八木まで特急使用、学割往復¥6860)
近鉄にぼんやりと乗っていたら、ふいに心にくる駅名が。
赤目口…っ!
近鉄はときめきがいっぱいですね!
赤目から榛原なんて、桜がすごく美しい光景の連続。最高にテンションあがる。
今度赤目に行こうと心に決めました。ほらやじきたコンビも滝めぐりしてたし!(違います)
そして橿原神宮前から吉野への電車の混みようハンパない…。まぁ寒かったからちょうどいいけどな!w
シーズンだからね…

吉野駅を降りて、下千本に行くケーブルに乗るかバスで中千本に行くか、の2択が目の前にあったのですが、まぁ350円だしーとバスに乗ることにしました。ちなみに中千本までは歩くと50分だそうな。
1250くらいに到着して、さてどうしようか、と、トイレに長蛇の列が出来ているのを横目に考えます。

とりあえず階段をのぼると、奥千本までのバスがあるということ。せっかくここまで来たんだし…と階段を上ってみました。ここでぜーぜー言っていたのは一体なんだったのか。やはり山登りもブランクがあるとダメですね。
奥千本行きのマイクロバスが出ていますが、1時間くらい待たなければならないよう(乗ったら15分で着くのだけれど)。やはりシーズンだしな、と思い、どうせ上まで行くのに1時間かかるなら歩こう、と変更しました。(そういう人も結構いました)
中千本に行くバスで中千本以下の簡易地図をいただけるのですけれど、それ以外に地図がない状態でした。が、何度も言うようにシーズンでしたので、人について行けばそれが正解。(今回は楽だな…と思っていましたがまさかそれがフラグになろうとは)

道なりに歩いていくと、遠く左手に桜が見えてきます。
なるほど、山の上まで連なって見える。これは美しいわ。
もうちょっと上に行くと、休憩所もあったり。
皆さんそのあたりでピクニックしてます。平和だ。

そうそして、初めて気付いたんですが、私のカメラにはマクロ機能とかいうものがついていたらしいのです。
うきうきしてたくさん撮影してみたりw
でもいくつかピンボケします。…?(普通のデジカメですがいまだに色々謎すぎて使いこなせてないw)

吉野はやたら後醍醐天皇押しでした。
吉野と言えば私にとっては「よき人よく見」だし、
その頃から朝廷にとってどんな役割をしてきたのかなとか、
役行者とか、
義経とか、
西行法師とかなので、まさかといったところ。
一般人の知名度はどれが一番なのか知りたい。(全部知らないと言われたらどうしようww)

このところ、色々な悩みがあって、
まぁ悩みと言うよりは気にかけなきゃいけないとかしっかりしなくちゃいけないとか、
追いつめられてはいないと思うけどナチュラルハイになっていたのですが、
上って、桜を見ているうちに、そんな雑念が一気に消えていた。
もう別に頑張ったりしなくていいんじゃないかなぁ、と。
世の中はちゃんと働くか死ぬかな二択でもないような気もする。
じゃあもしどうにもならなかったらいちのさんで死んじゃいましょう(@千沙姫)じゃないけど、
でもどうなっても吉野の桜が受け入れてくれる気がする。
願わくは桜の下にて春死なむ。
綺麗なものを綺麗ということ。 ただそれだけだった。
…というようなことをやけにすっきりしながら考えていました。
というかいっそ悟りの域…?
煮詰まった時は自然に還るのが一番なのかもしれません。というかまた吉野に来よう。

横川覚範の首塚でまで来て、もう少し上れば水分神社に行けたのですが、よく考えたら思いつきすぎて御朱印帳も持ってきてないし、まあいっかと。
でもここから見る桜は有名なんじゃないかな。一望できる。
さて、下っていって、先程皆がお花見していたところに来た時、ちょっと思いました。
これ、下の橋があるってことは、ハイキングコースなんじゃね?と。
行ってみよう。
ほらなんか道あるし!どっかに行けそう!
でもそこまでおりるの大変じゃない?
というココロの囁きをさっくり無視しておりました。

…ちょっと大変だった。
ミラツアで慣らしたと言えども、前日雨で泥濘になっていて滑りやすいところをおりるのはちょっと怖かった。
でも私がおりた後に、皆下りてきた…。アグレッシブだな。
ハイキングコースのようなところを、だいぶん人が少なくなったなあという印象のままに歩いてみましたが、
ここ、いいです。ポイントだと思う!
シーズンなのに人はいないし、余計な電線とか木とかないし、一望出来ます。おススメだと思う。
いやまあここどこ?って聞かれたら困るんだけど…でも一応ここで花見してる人とかもいたからガイドブックに載ってるんじゃ…(適当)
敢えて言うなら、如意輪寺からのバスの上千本駅までのハイキングコース、を途中の分かれ道で水分神社首塚の方に行く道、を反対から来た、って感じなのです。よくわからない。
でも綺麗だったの!!(結局それが主張したい)

途中で、桜や、あとつつじが美しいところで、左右から鶯の鳴き声が聞こえてきて、
日本の春すぎて泣くかと思った。
ホーホケキョ。

だいぶ下までおりてくると、足もとがアスファルトになります。如意輪寺に出たので、そのまま中千本まで歩くことにしました。
しかしここは屋久島か。どうしてこうなったって木がたくさん。
中千本のあたりになると、桜を直接見るというよりは(もちろんそれもあるけれど)、遠くの桜を見て、ああけぶって綺麗、みたいな印象でした。
ちなみに桜もいい感じに舞っていました。

中千本が一望できる(たぶん)お店に入ります。このあたりからお店が連なり始めました。
1500でしたけど、よく考えたら今朝から何も食べてなかった…!(こんなんばっか)

さてどんどん下におりていきます。
吉野は葛が有名なんですね。ちょっと試食したけれど、甘い中の独特の草っぽい苦み?があったのでちょっと遠慮してしまいました。
その他じゃことか桜のにごり酒とか(買った)。柿の葉寿司は奈良の定番ですね。
こういう露天?屋台?って要するに海外のああいうのと一緒だよね?海外では怖いっていうかあんまり好きじゃないのに、どうして日本の奈良の門前町系は好きなんだろう。

さて吉水神社は華麗にスルーして(ごめんね羽柴さん!)、金峯山寺蔵王堂に行ったらば、境内でなんかマイク持った人が歌ってました。
…ええと、桜フェスティバル?いやまあいいんですけど、世界遺産なくせにこういうことする日本ってすげえなあ。
蔵王堂と仁王門は背中合わせ。

なんだか、桜は美しい、ってモードでいすぎて、下まで降りたときも歴史モードにならなかった…
由来やら何やら読むこともあんまりしなかったし。

後醍醐天皇にそこまで興味がないのかもorzなんかあれでしょ、まじないとか言ってみかん頭にのっけてた面白いおっさんでしょ?(←

あ、でも彼の息子の護良親王にはちょっと興味ありますよ。きっと彼は切れ長な目をしたイケメンに違いない。
この橋は、ただの橋じゃなくて、あの乱の時に使われた…(もう忘れた

そして吉野神宮に行くか、七曲りに行くかの分かれ道で、下千本を見るために右へ。ケーブルカーもありますが、これも¥350。中千本まで行くのと同じ値段なら歩くわ、と。

さておりてきたら、吉野からの特急券は売り切れていました。まあそうだよね。ちなみに特急はさくらライナーという名前の可愛い列車でした。
快速で大和八木まで出て、鳥羽行きの特急に乗りました。
だから伊勢中川で乗り換えなければならないのですけれど、そのまま乗っていたら五十鈴川に行く、そうだ。
…ちょっとそのまま乗っていってやろうかと思った。

その近鉄特急の中で、明日の予定について電話がかかってきたり、頼んでた原稿がメールに入ってたのを確認して、としていると、日常が段々と戻ってきたのが実感出来る。
でも別に切羽詰まった気分じゃないのが不思議。
月並みだけど、また頑張ろうと思えた。

…といい感じで終わればよかったんだけど、榊原温泉口駅近くに見えたこの建物。 なん…だと…
いや列車の中からとっさに撮ったのでよくわからないと思いますが、ちょうど棒がかぶっているあたりに、でかいビーナスがいた。
…何を言ってるかわからないと思うが(ry

これではどうかと思うので、車内から撮った夕焼けを。反射しないようにするにはどうしたらいいのか…
そして家に帰ってきたら祖谷のだんごが買ってきてあったのだが、…一瞬趣味を知られているのかと思ってびびったという。(今回のお供は先生の紀行だったのです)

*******

あんまりなので、一応見ていたパンフに書いてある歴史的ないわれでもチェックしてみました。
とりあえず世界遺産だとか。(知らなかったw)
西行庵:放浪の歌人西行が3年幽居していた。近くに青根ケ峰がある。
金峯神社:古くから黄金の守護神として信仰をあつめ、道長参拝の記録がある。義経ゆかりの隠れ塔がある。
吉野水分神社:子守りの神社。秀頼や宣長もここの申し子。
■如意輪寺:後醍醐天皇勅願寺楠木正行が大阪四条の戦いに出向く前、「かえらじとかねて思へば梓弓なきかずに入る名をぞとどむる」と詠んだ辞世の句が堂扉に残る。
金峯山寺蔵王堂:修験道の根本道場の本堂。仁王門と蔵王堂は背中合わせなので、下界から来た人には仁王門が迎え、巡礼してきた人には蔵王堂が迎える。
■総門(黒門):昔は大名と言えども槍を伏せ馬から下りて通ったという関所。

淑き人の良しと吉く見て好しと言ひし芳野吉く見よ良き人よく見
個人的にはこの句が真っ先に思い出されるくらい彼らを愛しているので、吉野が後醍醐帝のことばっかりなのに一抹の不愉快さは感じるのですが…。まあそれはそれ。
吉野というのが、南朝と言われるまでの力を誇ったのは、何もあの時代からではなく、始めから…大海人の時代からなんじゃないでしょうか。大和朝廷がおいやった縄文人的な人たちが住んでいたとか?
だからこそ義経ちゃんとかいろんな人が逃げ込んだ、みたいな?

しかも壬申の乱の際、大海人は吉野から美濃まで行ったわけで、…遠い!今でさえ遠いのによくもまあ。