十二国記ってこんな話だったっけ?
とまどいの方が大きい。
そもそも十二国記は「王」と「麒麟」のストーリーを通して「国」を見つめる話だった(少なくとも今まではそうだったと思うのだが・・)と思うのだけど、今回は「名もない庶民の話」である。
それ今までは脇役だったり、主人公たちに影響を与えるだけの人間たちじゃなかったか?
明らかにラスト2編はテイストが違って、もしかしたらこれが震災の影響なのかと思うくらいだった。
ひらたく言うと、民という存在が神聖化されすぎているし、被害者の立場に立ち過ぎている。
昔から十二国記は、民という存在は身勝手で一生懸命生きていてそれだけで人を傷つけるけど自己愛にまみれてでもそれでもある程度は善人として生きている、という、決してここまで賛美内容だったり被害者ぶっていたりはしなかったと思うのだけれど。。
という、なんだかなあと思いながら読んでいました。
最初のはなし。
雑誌で読んだ時は「だから慶なんてこれから問題山積みだろうに、主人公補正で気楽にしてんじゃねーよ!」と叫びたくなりましたが、陽子が人たらしであるところだけはじわじわきました。あれ惚れるよ。陽子はどんどんヅカ男性役になっている気がする。
らくしゃの獄。
いやーこれ好きですよ。
最初の、「法は情で動かしてはならない」のくだりは非常によく理解できるので、(なぜならそれでは法の存在意義がただの「存在」だけになってしまうから)(守るべきものではなく規律でしかないなら「人は憲法によって自殺したりしない」)清花が何を言ってるのかまじでいらつきました。
でもそれが民が司法を見捨てること、すなわち司法が力を持たず存在意義を失うということにつながるわけで、民とは愚かなものだなと思います。
十二国記はこういうノリだったと思うのだけどなー。この次からの話はちょっと違ってきてしまっている。
国がさばくことは、自分がさばくことだから。
政府高官になるにつれて、國が自分と一緒になることを理解している。
…なんかこう、「御信任の程度が違うのだし」を思い出すかねけん\(^o^)/
あと死刑制度の話と、感情や理屈を超えた話が綺麗にまじるところに、また理と交じるということを見ました。
惠施の復讐は、たいそう真面目に守っているその法律とか人間の善意とか、そういうものと、それが人間の情とかい離していることをなんとか知らしめたかったのかしらと。
結局法律は名文化されていてもどちらも使う人により情も理もあり、最終的に自分の綺麗な理解できる世界以外を切り捨てるところで全てが動いていたことへの敗北感、かなあ。
しかしあれですね、いろいろもにょる。
ラスト2編はそういう意味に気に食わないからまあいいや。
これはもうキャラに対する信頼より話が成立している気がするのだが。
延王はそこまで民サイドではないと思うのだが…むしろ誰より支配者サイドであると思う(双璧は珠晶)。