地球ばんざいde妄想乙

※あくまで妄想です。関係者の方は大手検索サイトにすみやかに移行していただけると幸いです。

 

まど・みちおさんの「地球ばんざい」については読んだことはないです。でも私の中の、まど・みちおさん、というのは、(小学校の時のイメージでは)子供向け。いい意味で。大人は、もう決して理解できないんだろうなって思いながら、子供の特権を楽しんでいました。(そんな子供に純粋に楽しめたかと聞かれると笑うが…)でもまったく子供でなかった。当たり前のことなんだけどなぁ。

で、憲夫さんのイメージは、暗い(…)。ちなみに知ってる曲は「永訣」「地蔵」「祈祷」「雨ニモ」「般若」…うん、暗くない曲もあるけど、なんか悲愴なんだもん。「雨ニモ」と千原と比べると…。

そんな憲夫さんの、「ばんざい」ばんざい?ばんざいって、今なかなか使わないよ。合格発表のときくらい。あとは選挙とか?両手を上にあげて、手放しで喜んでいるの。すごく無防備な姿勢で。

最初に歌ったのは「いきもののくに」単体だったこともあって、明るい!えっ憲夫?みたいな。(おい)

一ぽ外へ出てみると。アリが、チョウが、スズメが、木が、それぞれの生き方をしている。近くにいる生き物に、私たちは気づかない。一ぽ外に出てみさえすれば、ああ、いきもののくにだ、わかりきっているのに、ここは。いきもの再発見☆みたいな。最後に、いきもののくにだー!って。いきものばんざーいっ!!って。わかりやすい。ありがちともいえるけど(でもそのありがちなことがちゃんとできたのもまどさんや金子さんぐらいかもしれない)。「どうしてだろうと」も、というかこの曲に書かれている詩は基本的にありがちなのだ、いい意味で。そういう意味では「よるのみち」も、そうかも。

「きこえてくる」は、引き合いに出される「かがみ」という詩から考えるに、いろんないきもの(いきもの以外も)が、自分の姿を(本能で)見たいと思う、海や湖や川や空や、そういった地球にあるかがみにうつる自分を見たいと思う、そんないきものが生まれてくる音が聞こえてくる、という内容だと思います。個人的には、他3編は、絵本っぽい、ああ、まどさんならこういう風に書くかもね、なんだけれど、これは、あ、まどさんだ、っていう、まど・みちお節があるような気がする。

 

ということは、「どうしてだろうと」の中の、「こんなに透き通る」光や水や空気は、「きこえてくる」であるような、いきものが本能で求めているものってことになるよな(今気づいた)。「かがみ」で「生き物だけでしょうか」ってあるけれど、とりあえずいきもの「数限りない命たち」ってことで。本能で求めているようなものの中で暮らしているのに、「どうして透き通ってはこないのだろうと」思う。なんかこう、脱☆本能、脱☆いきもの=人間みたいな感じですわ。

でも、「よるのみち」で、つきがやさしく、まず、昼間そんな人間が疲弊させたみちを寝かせてくれる。さらに、その人間たちも「どこで、どんなゆめをみているのでしょう」と、思いやる?変な言葉だな、それも。でも「ゆめ」を見ているのでしょう、というのは、人間たちも思いやっている、ということではないかと。みちに、昼間あなたが頑張ったから人間たちは今日もゆめが見れます、って言ってる感じでもいいけど。でもみち、っていうのは、人間が作ったものでしょう?(車が通れるみちだし)…あ、なんか、怖くなってきた。これが愛情to人間ってのがなかったら怖い。

 

 

地球ばんざいっていうニュアンスからはかなりはずれた妄想が私の中で膨らんできたので、ここからはその妄想を。ていうかすでにプロット?

 

余命いくばくもないと急に宣告された男がいる。病院で一人で入院していると、色々なことを想い浮かべる。そんなにありもしない財産の話を進めなければならない。小学校の教師でもあったから引き継ぎもせねばならない。必要なことだと、昼間打ち合わせをしている時は納得済みだし、自身も積極的だ。しかし夜になるとそうではなくなる。自分が亡くなることを悲しむことより、お金か、と。もちろん現実を見つめて動いているだけだということもわかっている。感情が納得してくれないだけで。泣いてくれた子供たちだっていつまで覚えていることやら。どうせ大人になったら忘れるだろう?医者だってそうだ。「お気の毒ですが」なんて言葉。本心で思ってるならなんとかしてくれよ。医者だろ?助けることが仕事じゃないのかよ?そりゃ患者はたくさんいる。医者だって人間だ、悲しいとは思っているだろう。いつもついていられないのはそれも仕事だからだ。しかし所詮他人事だろ。

そこまで考えて男は我にかえる。結局この感情はすべて自分のものだと。お金にこだわるのも、他人の死を遠くからしか受け止められないのも、すべては自分がかつて、いや今もそうだから。嫌悪すべきは自分自身。

壁に貼ってあるのは自然の写真が写っているカレンダー。山が手前の湖に正反対に映っている。

顔をあげても、今は窓の外には月すらも見えない。

「どうしてだろうと」-ただひたすらに、そう、嘆く。

 

ある日、病院内の購買に行った帰り、婦人科にかかっている女性を助ける。妊娠中のその女性や、そのママ友達との会話。うまれるということ。お腹を蹴る音。鼓動。聞こえてくる音。ぽこぽこぽこぽこ。小児科での子どもたちは土いじりをして遊ぶ。どこもかしこも、生まれ出る音なのだ。その中で自分にその音はない。でも、まだ生きている。生きているかぎり、無限に、自分の行動から、生まれ出るものがある。さまざまな個性を持って、奏でる音がある。

「きこえてくる」

 

夜に見上げると、満月がほほ笑んでいる。それは生きるものすべてに、それ以外のものにも平等に降り注ぐ。病院の前の道路は、今日は静かだ。昼間に見た、あらゆる人たちは、今は、どこかで眠っている。街はひたすらに、やさしくあった。ねんね、ねんねと、はるか昔に亡くした母の手のように。まだ母の手が大きくて、すべてから守ってくれて、母さえいれば世の中のすべてが上手くいった日を思い出す。眠ってもいいよ、もうお眠りなさい、と。男は安心して眠る。落ちていくように。

「よるのみち」

 

突然光がさす。扉を開けた瞬間に燦然と輝く太陽が目にまぶしい。生きている。生きているのだ。扉を開け、手に入れたものをすべて置いて出ていく。一歩踏み出すと、足元でアリが歩いている。ちまちまと。人間の一歩に満たない距離を、必死にあくせく働いて動いている。ふと鼻先をかすめて蝶々が飛んでいく。花から花へ、また花を探して行くのだろうか。ふらふらと、空気のに流されながらも、翅を揺らめかせて飛んでいる。スズメが相変わらずさえずっている。スズメ同士が集まってきている。見上げた先には木がある。どっしりと。その木の先にスズメがいる。蝶々が視界を横切っていく。扉を開けて一歩外に出てみさえすれば、こんないきもののくにが広がっているのに。いやわかっていた。わかりきっていたはずなのに。もうそんなありがちなことを言う年でもなくなって、子供のものだと思っていた世界があることを許容してみていた、そのはずなのに。ああ、いつもいつも口で言っていたはずなのに。いきもののくになのだと。ああ、今なら、あのように空虚でなく、もっともっと、言えるのだろうに…!

人が胡蝶の夢ならば、あの蝶々もまた人なのだろうか。いや、そもそも自分も蝶々なのかもしれない。見えるあらゆるいきものなのかもしれない。ただいきものであっただけで。そしてこの地球は、いきもののくになのだ。

「いきもののくに」

 

…はい死にネタ!!!なんてありがちなんだ!!(爆)妄想乙自分www