保元から平治についてのwiki先生による講義

とりあえず今せっかく大河で保元の乱一直線なので、wiki先生に聞いたみた。

永治元年(1141年)12月7日、鳥羽帝は藤原璋子との子である(ってこれ言い切っちゃっていいのかしら。叔父子でしょ?)崇徳天皇を退位させ、得子の子である近衛天皇を即位させた。

中御門流や村上源氏の公卿は得子とその従兄弟で鳥羽法皇第一の寵臣といわれた藤原家成に接近し、政界は待賢門院派と美福門院派に二分される。

(家成様って得子様の従兄弟だったの?ちょっと待って、家成様と宗子様も従兄弟でしょ?得子様と宗子様って遠い親戚ってこと?合ってる?)

両派の対立は人事の停滞を招き、47年には大臣は一人のみ(内大臣藤原頼長)という状況になった。

つまり天皇家的には崇徳(子様)VS近衛(得子)があって、それが貴族たちにも影響していたってことですね。

しかしこれを見る限りでは内大臣頼長さまが「粛清!」って一人で頑張っちゃったのもむべなるかなって思います。

関白の藤原忠通は後継者に恵まれなかったため、異母弟の頼長を養子に迎えた。しかし康治2年(1143年)に基実が生まれると、忠通は摂関の地位を自らの子孫に継承させようと望み、忠実・頼長と対立することになる。

(この愛憎やばいね!わざわざ養子に迎えてなんじゃこらああああって思ったとしてもしょうがない、むしろ基実さんが生まれるまでお互いがお互いを思いやってたとかどうですか切ない!)

多子さんが頼長派で、呈子さん(得子様の養女)が忠通派で、互いに入内する。鳥羽法皇はこの問題に深入りすることを避け、多子を皇后、呈子を中宮とすることで事を収めようとした。鳥羽帝がかわいそうになってきた!

同年9月、激怒した忠実は摂関家の正邸である東三条殿や宝物の朱器台盤を接収し、氏長者の地位を剥奪して頼長に与え、忠通を義絶する。

(これなんでそこまで怒ったんだろう。俺の言うことを聞かない息子なんてもはや敵ってことですよね。忠実さん一緒に政治をやるって選択しなかったのかなって思うが、まあ政治の世界で隙を見せたら負けですもんね)

鳥羽法皇は先の入内問題と同じく曖昧な態度に終始し、忠通を関白に留任させる一方で頼長に内覧の宣旨を下す。(この鳥羽帝の態度すごいよ、もうよきにはからえって感じだよ)

内覧となった頼長は旧儀復興・綱紀粛正に取り組んだが(本気で粛清してるわこの子)、その苛烈で妥協を知らない性格により「悪左府」と呼ばれ院近臣との軋轢を生むことになる。

仁平元年(1151年)には藤原家成の邸宅を破却するという事件を引き起こし、鳥羽法皇の頼長に対する心証は悪化した。

(これ家成さんの家来がより流さんの家の前を下馬しなかった扱いになってたけど、そりゃあ庭師がちょっと仕事せんかっただけで首にするような人だもんねーとか思いつつ、実際なんで破却したんだろう。破却ってことは剥奪とかじゃないんだよね。家成さんあれはあれであくどい人(完全に大河の影響)だからなー。気に障ることしたんかなー)

とりあえず貴族の世界では頼長VS忠通・忠実ってことになっていて、両方権力はあったけれど、頼長さんはあまりにも粛清!しすぎたんだなということですね。ほんでもって院の近臣にまで手を出したと。

なんかこのあたり、明治の司法卿を思い出す。

久寿2年(1155年)7月23日、近衛天皇崩御する。後継天皇を決める王者議定に参加したのはいずれも美福門院と関係の深い公卿だった。美福門院の養子守仁親王が即位するまでの中継ぎとして、父の雅仁親王立太子しないまま29歳で即位することになった(後白河天皇)。守仁はまだ年少であり、存命中である実父の雅仁を飛び越えての即位は如何なものかとの声が上がったためだった。突然の雅仁擁立の背景には、雅仁の乳母の夫で近臣の信西の策動があったと推測される。

この重要な時期に頼長は妻の服喪のため朝廷に出仕していなかったが、すでに世間には近衛天皇の死は忠実・頼長が呪詛したためという噂が流されており、事実上の失脚状態となっていた。

(この噂も絶対信西が流しただろ!)

(でもこの噂が流れるくらい、頼長さんって崇徳に近づいてたってこと?だってここで呪詛したって頼長さんにはいいことないじゃない。近衛帝が彼にとって邪魔だったとは思えないのだけれど。いつも敵対オーラ出してたならともかく)

(あ、もしかして近衛帝ってことは鳥羽帝というか得子様の味方なのだから、得子様と近づいた忠通さんと敵対した頼長さんって構図なのかしら?家成さんとも問題起こしてるし)

↑これって「誕生、後白河帝」のあたりだよね。ちゃんとしとる。ちゃんと歴史なぞってる。

だけど聖子ちゃんが出てきたってなんの不思議もない、宮中で渦中の人間が完全に一人ミュージカルしててもそれが当然、それが大河クオリティです。

保元元年(1156年)5月、鳥羽法皇が病に倒れた。病床の鳥羽法皇源為義平清盛北面武士10名に祭文(誓約書)を書かせて美福門院に差し出させたという。為義は忠実の家人であり、清盛の亡父・忠盛は重仁親王の後見だった。法皇死後に美福門院に従うかどうかは不透明であり、法皇の存命中に前もって忠誠を誓わせる必要があったと見られる。

(このあたり、今回の大河で完全スルーされとるよね。まあここまで入れたらわけわからんくなるといわれればそれまでなんだけど。お父さんの忠盛さんが崇徳にも鳥羽にも媚ちゃんと売ってたあたりが面白いというかなりふり構ってないというか)

(あと武士の人たちがそんな証文をちゃんと守るかっていうのは疑問ですよね)

んで保元の乱

7月5日、「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という風聞に対応するため、勅命により検非違使平基盛(清盛の次男)らにより京中の武士の動きを停止する措置が取られた。

法皇様が亡くなったのは2日だからすぐ。そしてこの風聞とか噂とか、そのようなものを簡単に動かす得子様すげえ。

(んでここで清盛の次男が出てきたってことはとりあえず、彼は、得子様サイドってことでいいのかしら?)

(あとこの頃って貴族以外は人にあらずと思ってたんだけど、噂とか風聞とかってのは宮中オンリーってことか?)

8日には、忠実・頼長が荘園から軍兵を集めることを停止する後白河天皇の御教書(綸旨)が諸国に下されると同時に、蔵人・高階俊成と源義朝の随兵が東三条殿に乱入して邸宅を没官するに至った。没官は謀反人に対する財産没収の刑であり、頼長に謀反の罪がかけられたことを意味する。

(あの暴力団義朝ちゃんならやる。これくらいのことやる。でもこれお父さんと一緒のことやってるって気付いてる?そこに気付いて苦悩する義朝ちゃんください

(あと後白河帝平氏と源氏うまく使ってるなあって感じ。どっちかに偏らないようにしてる)

この一連の措置には後白河天皇の勅命・綸旨が用いられているが、実際に背後で全てを取り仕切っていたのは側近の信西と推測される。この前後に忠実・頼長が何らかの行動を起こした様子はなく、武士の動員に成功して圧倒的優位に立った後白河・守仁陣営があからさまに挑発を開始したと考えられる

(やだこの人たちのあくどさプライスレス萌え

9日の夜中、崇徳上皇は洛東白河にある統子内親王の御所に押し入った。白河は洛中に近く軍事拠点には不向きな場所だったが、南には平氏の本拠地・六波羅があり、自らが新たな治天の君になることを宣言して、北面最大の兵力を持つ平清盛や、去就を明らかにしない貴族層の支持を期待したものと推測される。

(ってことは清盛さんはまだ完全に得子様サイドじゃなかったのか?このあたりがどう見られてるかわからんのよね)

10日の晩頭、頼長が宇治から上洛して白河北殿に入った。武士は為義と忠正が忠実の家人、頼憲が摂関家領多田荘の荘官でいずれも忠実・頼長と主従関係にあった。

(忠正叔父様は忠実さんの家来だったのか。。しかしここで叔父さんがこっちに来たあたりにとんでもないドラマがありそうで萌える。いや実際はクールに「俺家来だからこっちな」って言ってナチュラルに動いた可能性は否定できないけど)

崇徳は今は亡き忠盛が重仁親王の後見だったことから、清盛が味方になることに一縷の望みをかけたが、重仁の乳母・池禅尼は崇徳方の敗北を予測して、子の頼盛に清盛と協力することを命じた。

お母様!!ちょっと怖いわ。乳母だったんでしょ?乳母ってことはどれだけ頼りにされてたかってことでしょ?すげえ。しかも清盛に直接言わなかったの?清盛さんって真実の親子だよね?あの大河はフィクションだよね?まあ一族のトップになった清盛さんにいまさら言ったらあかんのかしらね?)

これに対して後白河・守仁陣営も武士を動員する。ちなみに大半の公卿は鳥羽法皇の服喪を口実に出仕せず、情勢を静観していたと推測される。

清盛と義朝は天皇の御前に呼び出され作戦を奏上した後、出撃の準備に入った。信西・義朝が先制攻撃を強硬に主張したのに対して、忠通が逡巡していたが押し切られたという。

義朝ちゃんの暴力団っぷりはもう見ていてすがすがしいですね)

11日未明、清盛率いる300余騎が二条大路を、義朝率いる200余騎が大炊御門大路を、義康率いる100余騎が近衛大路を東に向かい、寅の刻(午前4時頃)に上皇方との戦闘の火蓋が切られた。鴨川を挟んでの一進一退の攻防だったと推測される。攻めあぐねた天皇方は義朝の献策を入れて白河北殿の西隣にある藤原家成邸に火を放った。辰の刻(午前8時頃)に火が白河北殿に燃え移って上皇方は総崩れとなり、崇徳上皇や頼長は御所を脱出して行方をくらました。

(家成さんはもう亡くなってるのか。それでもこれは踏んだりけったりだなおい。ちょっと待てよ本当に義朝ちゃんのヤンキーっぷりはすげえな!なりふり構わん感じすげえな!誠に武士だわ)

(って思ってたらこの史料だよ!↓

山田邦和は残敵の中でももっとも重要な存在であった上皇と頼長が逃亡の際、上皇は内裏のある高松殿の周辺を逃げ回り、頼長も平安京を横断するというもっとも目につきやすいルートを用いて逃亡しているのに、残敵掃討の指揮にあたった義朝がこれを顧慮しなかったことを指摘して、「手抜かりというレヴェルですらあるまい」として、義朝を「十廿騎の私事」といった小競り合いに長けているだけの無能力な人物と酷評している。

頼長は合戦で首に矢が刺さる重傷を負いながらも、木津川をさかのぼって南都まで逃げ延びたが、忠実に対面を拒絶される。やむを得ず母方の叔父である千覚の房に担ぎ込まれたものの、手のほどこしようもなく、14日に死去した。

(うわああああああああ!)

またこれで摂関家の荘園がどんどん信西に取られていったわけですね。

忠実の断罪を主張する信西に対して忠通が激しく抵抗したという逸話があり、摂関家の弱体化を目論む信西と、権益を死守しようとする忠通の間でせめぎ合いがあった様子がうかがわれる。

忠正・為義と家弘が一族もろとも斬首された。『法曹類林』を著すほどの法知識を持った信西の裁断に反論できる者はいなかった。

(なんだこれ。せつなすぎっだろなんだこれ。ドラマと混じってるとは思うけど、あの叔父さんが斬首されるときには絶対「ふっ」って笑顔見せると思うし、清盛はそれを「叔父の覚悟」として受けとってますます平氏の繁栄に力を注いでいくんだよ!そして源氏はお父さんだよ?あの「弱いなら弱いままで負け続けろよ俺が守ってやんよ!」からの決裂ですよ。行き過ぎたつんでれってやつでしょ!?

(あとあの信西さんの無駄(無駄言うなし)な知識はこういうところで役に立っていたわけですね)

その後は信西一門が台頭したものの、旧来の院近臣や貴族の反感を買い、やがて広範な反信西派が形成されることになる。さらに院近臣も後白河院政派と二条親政派に分裂し、朝廷内は三つ巴の対立の様相を呈するようになった。

荘園整理令を立案・推進したのが、後白河の側近である信西であった。信西は積極的に領地を増やした。

また、平清盛を厚遇する。清盛は武力を背景に国検を断行する一方、寺社勢力の特権もある程度は認めるなど柔軟な対応で、大和の知行国支配を行った。さらに清盛は大宰大弐に就任することで日宋貿易に深く関与することになり、経済的実力を高めた。

(すげえなあ清盛さん(棒読み)そこまで成長するのか)

美福門院は、鳥羽法皇から荘園の大半を相続して最大の荘園領主となっており、その意向を無視することはできなかった。美福門院はかねてからの念願であった、自らの養子・守仁の即位を信西に要求した。保元3年(1158年)8月4日、「仏と仏との評定」より後白河天皇守仁親王に譲位した(二条天皇)。ここに、後白河院政派と二条親政派の対立が始まる。

(そもそもアラサーまでらりらりしていた)後白河には味方がいなかったので急遽藤原信頼を抜擢する。(だからどうしてあのデブを)

信頼の一門は武蔵・陸奥知行国としており、両国と深いつながりを持つ源義朝と連携していた。

後白河の近臣としては他にも、藤原成親藤原家成の三男)や源師仲が加わり院政派の陣容も整えられた。

(なんかこのころの清盛さんって本当に金持ち喧嘩せずだよね)

ここに、信西一門・二条親政派・後白河院政派・平氏一門というグループがそれぞれ形成されることになった。二条親政派と後白河院政派は互いに激しく対立していたが、信西の排除という点では意見が一致し、信西打倒の機会を伺っていた。

一方、清盛は自らの娘を信西の子・成憲に嫁がせていたが、信頼の嫡子・信親にも娘(後の藤原隆房室)を嫁がせるなど、両派の対立では中立的立場にあった。

平治元年(1159年)12月、清盛が熊野参詣に赴き京都に軍事的空白が生まれた隙をついて、反信西派はクーデターを起こした。

世に言う平治の乱の勃発である。

なにこれ清盛さん格好いい。つまり清盛がいるから京の治安が保たれてたってことになるわよね?なにこれラスボスじゃねーの

12月9日深夜、藤原信頼と信頼に同心した武将らの軍勢が院御所・三条殿を襲撃する。信頼らは後白河上皇の身柄を確保した。クーデターには二条親政派の同意があったと推測される。

山城国田原に逃れた信西は自らを地中に埋めさせて自害した。光保は信西の首を切って京都に戻り、首は大路を渡され獄門に晒された。

信西が自害した14日、内裏に二条天皇後白河上皇を確保して政権を掌握した信頼は、臨時除目を行った。

信頼の政権奪取には大半の貴族が反感を抱いていたが、二条親政派も義朝の武力を背景とした信頼の独断専行を見て、密かに離反の機会を伺っていた。その最中、東国より兵を率いて馳せ上った源義平は直ちに清盛の帰路を討ち取るよう主張したが、信頼はその必要はないと退けた。信頼にしてみれば嫡男・信親と清盛の女の婚姻関係により、清盛も自らの協力者になると見込んでいた。

(義朝ちゃんは信頼派で、清盛さんはある意味信西派だったのね。まあ大河見ててもそうだもんね。盗んだバイクで走りだしそうな15の頃からのつき合いだもんね。あの頃の信西さんがああなるとはまさか(ry)

清盛は、紀伊国で京都の異変を知った。動転した清盛は九州へ落ち延びることも考えるが(これかわいいな!一応信頼は君のことはちゃんと思ってたんだよ!)、17日帰京する。

一方、義朝はクーデターのため隠密裏に少人数の軍勢を集めたに過ぎず、合戦を想定していなかった。

京都の軍事バランスは大きく変化し、信頼の優位は揺らぐことになる。

(つまりラスボスがさらに大きくなって帰ってきたということでいいですか?)

(まあでも熊野の最中に「都でサダヲが死んで権力握ったのがデブです、デブは義朝とつるんで今都でデカい顔してます!」って連絡きたらそりゃびびるわな)

信西と親しかった三条公教と二条親政派惟方により二条天皇六波羅行幸の計画が練られ、藤原尹明(信西の従兄弟・惟方の義兄弟)が密命を帯びて内裏に参入する。

(このあたり、信西さんの恨みとかそういう系のアレみたいだよね。死せる信西生ける信頼を走らす

(あと私はこのあたりで信西と信頼の区別でわけわからんくなった過去があるので、今回のように信西サダヲと信頼デブってのはいっそ気持ちいいほどわかりやすいです)

25日早朝、清盛は信頼に名簿を提出して恭順の意を示し、婿に迎えていた信親を送り返した。信頼は清盛が味方についたことを喜ぶが、義朝は信親を警護していた清盛の郎等(難波経房・館貞保・平盛信・伊藤景綱)が「一人当千」の武者であることから危惧を抱いたという。

(戦う気満々じゃねーか!)

(あとこの名簿を差し出すってこれ何ですか?)

25日夜、惟方が後白河のもとを訪れて二条天皇の脱出計画を知らせると、後白河はすぐに仁和寺に脱出した。

26日丑刻(午前2時)、二条天皇は内裏を出て清盛の邸である六波羅へと移動する。藤原成頼(惟方の弟)がこれを触れて回ったことで、公卿・諸大夫は続々と六波羅に集結する。信頼と提携関係にあった摂関家の忠通・基実父子も参入したことで、清盛は一気に官軍としての体裁を整えるに至り、信頼・義朝の追討宣旨が下された。

義朝は信頼を「日本第一の不覚人」と罵倒したという。

(くっはー!玉木に罵られるデブとかやだ新たな萌えに目覚めそう

(あとこの頃から官軍っていう発想大事だったんですね)

実権を握った二条親政派の経宗・惟方は、後白河に対する圧迫を強めることになる。

正月6日、後白河が八条堀河の藤原顕長邸に御幸して桟敷で八条大路を見物していたところ、堀河にあった材木を外から打ちつけ視界を遮るという嫌がらせを行った。

後白河は激怒して清盛に経宗・惟方の逮捕を命じ、2月20日、清盛の郎等である藤原忠清・源為長が二人の身柄を拘束、後白河の眼前に引き据えて拷問にかけた。貴族への拷問は免除されるのが慣例であり、後白河の二人に対する憎しみの深さを現わしている。経宗・惟方の失脚の理由としては、信西殺害の共犯者としての責任を追及されたことによるものと見られる。

つまり後白河さん信西のこと大好きだったってことでいいですか?

(ああでもあの後白河さんならキレたらすごそう。拷問聞きながら「妙なる調べ」とか言いそう。)

乱勝利の最大の貢献者である清盛はどちらの派にも組することなく慎重に行動した。

(どっちつかずにして最大の武力を持っていた平氏が、皆がいろいろ争って疲弊していたところをうまくのし上がったって感じでいいですか。)

とにかく源氏と平氏はもともと平氏>源氏であって、源氏がのし上がったのは鎌倉様以来であり、だから彼の恩賞不服説は今は否定されているってことですね。