六波羅

六波羅蜜寺

半兵衛麩から六波羅蜜寺まではちょっと歩きますが、歩ける距離です!!(母が←ポイント)まあ清水五条からは割とすぐです。
六波羅って本当に都の中心(内裏)からは離れてたんだなあ。
清盛が六波羅にいたりした、平治の乱のあたりのことは周知ですけれど、六波羅があの当時どれだけ荒れ果ててたかなんてえねっちけーさんの映像でしか知りませんし、それが都ならさらに関東の方なんてどれほど。
義朝ちゃんが893化するわけだわ(大河の話)。
それより東北では勝手に奥州藤原氏が栄えていたわけで、そこまで視野に入れた(これから入れるんだよな?)世界がこれから始まっていくのかと思うと胸が熱くなりますね。

六波羅蜜寺は醍醐帝の第二皇子空也上人によりつくられた
空也ってそんなエライ人だったの…知らんかったww単に踊ってた人だと思ってたw
いやここに本物があったけど、昔教科書で見た空也って口から6つの阿弥陀を出してて、ちょwwこの発想はなかった誰だよこんな像作ったのwwwってなってました。(今回それが運慶の息子と知って深く土下座したくなりました)

それから同じく、教科書に載ってる平清盛像。これも鎌倉時代に作られたものみたいですね。
私見るまで手にしてるのは王冠とかそういうものだと思ってたよ…経典でした。
一族の武運長久を祈願して、朱の中に血を点じて写経した頃の清盛さんですと書いてありましたが、え、この入道になってからもそんなことしてたの?(大河の「私は家盛の兄でございます!」のイメージが強すぎた)
あと不思議だったのは、鎌倉時代では平家物語が作られるくらい、平家は悪い、それを倒した源氏は正義みたいなことになってたんじゃないのかなあって。(よくある、勝てば官軍というやつで)
なのに、こういう慈悲深いイメージで作られた清盛の仏像が、壊されないで評価されるってのはすごいと思うのですが。
武家の権力を作りあげた男として、一応の尊敬はされていたのかなあ。
もっとも清盛が悪いっていうより、平家一族が悪い(主に宗盛)って感じだったら別にいいのかもしれませんが。
今思うより、あの当時は自由だったのかもしれません。

六道珍皇寺
…HPがない…笑

ここまで来たらいかざるを得ないと、またも京都在住の母の未知の寺へ足を踏み入れました。
いや小野篁知ってるのかもあやしかったようちの母。小野妹子や小町の系列!と超絶適当な説明をした。
それから六波羅蜜寺からちょっと歩きます。実際まっすぐ行けばよかったんですけど、わざわざ周り道して寺の周りを一周した私ら馬鹿w
でもその最中に、ちょうど六道珍皇寺の裏の向かいにあるお店が、おいしかったらしくて、そこの人とちょっとお喋りしたりして、ううむこれが京都かと感心したり。
つうかこのあたり一帯を六道の辻と言うわけでして。私の頭の中には六道輪廻サバイバルが流れっぱなしでした。

境内の参拝には事前予約がいるみたいで、ふらっと行った私たちにはあんまり見れなかったんですけど、
でもばっちりタカさんが地獄に行った井戸は見れますよ!遠目だけどね!