伊藤博文秘録 そのいち

1.日露開戦の時の話

ブミが腰ぬけとか恐露病とか言われて暗殺とかたくらまれたけど、ほんとはそうじゃないんだ!という熱弁。

結局のところ戦になることくらいはブミだってわかってた。でも軍が全勝を確約しないし、財政にとってはますますどうしょうもない。軽々しくこのような状態で開戦論を唱えることは、無責任な連中には出来ようが原文ママ公の立場としては絶対に出来ない。

その後に山座がまた「伊藤のせいで戦ができない」と言い出したので、誰がそんなことを言ってるんだと問いただしたら「陸海軍や外務省」と答えるので「おまえのような小役人にそんな大事なことを打ち明けるもんか」と返答。

心配になってブミに「山座がこういうこと言ってるわ」と告げるとブミはガチキレして、山座を呼び出して叱ったと。

ブミの口から開戦という言葉が出れば、明治大帝は直に御裁可になる。山縣公や桂公とは、御信任の程度が違うのだし原文ママ

 

-金子堅太郎氏

 

おまえか。

いやなんかこう、ちくいち無邪気を装ってきついこと言うなーと思ってたらおまえかい。

だってかねけんは山座君や、陸海軍や外務省の下っぱを「無責任な連中」と斬って捨ててるからな!外務省ってじゅったとかだろ。。これはしたっぱだな。

ともすればトップ、というか間違いなく陸海軍に関してはトップのガタ閥つまり山縣公や桂公をdisっている。間違いない。

御信任の程度が違うのだしの一文が恐ろしい。さすがかねけん。

 

2.政友会組織の下相談

大隈と伊藤の2人が並び立ったら素敵だろうなと夢を見ている。実際はガタだったろうなと推測。

明治初期のあたりのこの2人の対立前を、「みんな気心を知り合った人達ばかりだから愉快」と言いきる。それはたぶん馨ちゃんだから…じゃ…。

政友会が出来るときに、一緒にやろーぜと言われたので、いや困るって、公とか井上さんにもお話したけど私は将来とも決して政治には干渉しないと言ったのだと主張した。それは不親切すぎないかと公がキレたので、弱り切ってすぐ帰りがけに井上候を御尋ねしてお話した。井上から伊藤に話が通って、昔通りの親密な関係を築いてくれた。

そういえば後藤内閣の後に井上にも内閣をさせようという話がブミとガタの間で出たことがあった。古い友人の井上にも、一度は首相を務めさせたいとでも思ったのだろう。井上もまんざらでもない様子だったが、それは私が大蔵大臣になることが条件だった。めちゃくちゃ困ったけど、最終的にnoを言って、井上の話も流れた。井上内閣もお流れになったのは身を斬られるような辛さだった。

 

-渋沢栄一

 

伊藤の話どこ行った

 

4.第二議会の時の話

樺山の演説について、樺山はのぞくと小さく書いてあるブミについて

「ところが樺山さんだから如何にも腹の底から湧きだした本音だった」「ほんとうに死ぬ決心だった」それがまずいんですよ

松田正久の演説ははらはらするほど手厳しいものだった。憲法も何もあるものか、天引きだ、天引きだと理屈抜きの一本槍で押し出した

松田君ってそんなつっこんでいくタイプだったんですか私初めて知りました。

 

5.自由民権運動

板垣さんが政界から身をひいたのは、征韓論という大きな渦に飲み込まれた故であったが、要は愛想をつかしていたのだ。

うん?大阪会議の時の木戸さんの手土産扱いだったとか、木戸さんを裏切ったとか、戦争以外に能がないとか、そういうことではなかったんですね??

 

6.大阪会議 木戸大久保の握手

なんか知ったような内容がながなが書いてあるし、「木戸公はエラかった。大久保が清国から帰ってくると、大一番に喜びの手紙をだした」とか書いてあるし(えーっとそれって確かブミが「大久保さん頑張ってきたんだから褒めてあげてよ!!!」って木戸さんに手紙だした後のお話じゃないでしょうかね)、大阪会議のことやたら詳しいし、というかもう話が明治夫婦中心すぎると思ってたら

 

-徳富猪一郎氏

 

ですよねー。

ちなみにこの著者も、このときの伊藤と井上と大久保は完全にタイミングを合わせていたと記しています。ですよねー。